2010.5.21

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福島区事典


 ふくしまく  しせき あんない
福島区史跡案内 その1 玉川〜福島

          出発地点最寄駅  地下鉄玉川駅・JR野田駅 の だじょうあと 野田城跡 玉川4丁目3、11       とうしょきょうろく         ごろきず          ご みよしさんにんしゅう お だのぶなが たたか  野田城は、当初享禄4年(1531)頃築かれ、その後三好三人衆が織田信長と戦うため  かいちく                      いしやまほんがんじ こうげき        かしん に改築した城と言われている。天正4年(1576)信長が石山本願寺を攻撃した時、家臣  あらきむらしげ             こ      もうりすいぐん      じゅうよう きょてん        すいそく の荒木村重がこの城に立て籠もり、毛利水軍と戦う重要な拠点となったと推測されてい   げんざい        ひ る。現在2ケ所に碑がある。 ごくらくじ      しんしゅうひがしほんがんじ まつじ 極楽寺 玉川4丁目 (真宗東本願寺の末寺)   の だ ごぼう          じでん         うちじに  せんとう    きょうにょしょうにん ぼだい  てあつ  野田御坊ともいう。寺伝によれば、二十一人討死の戦闘の後,教如上人が菩提を手厚く とむら          そうどうじょう  こんりゅう          えんぽう 弔うため、極楽寺(野田村惣道場)を建立したという。寺号は延宝2年(1674)に本山   ゆる            けいだい から許されたもので、境内に「二十一人討死墓」がある。                    にしなりぐん  当寺は明治7年から14年まで、本堂が西成郡第三区第六番小学校(現玉川小学校)   しよう     しょうせつ        くも   しゅじんこう       あきやまよしふる            きょうし に使用され、小説「坂の上の雲」の主人公の一人、秋山好古がこの小学校で教師をした  つた と伝えられている。 の だ え び す 野田恵美須神社 玉川4丁目                        えびす     さんぱいしゃ  「野田のえべっさん」で親しまれ毎年1月の十日戎には、参拝者でにぎわい大変な人                つ             たい      すがた              こらい 出になります。戎さんは右手に釣りざお、左手に鯛と言った姿でわかるように、古来こ       なにわ や そじま       ぎょぎょう            うら     こまいぬ せつめい のあたりはが難波八十島と呼ばれ漁業の中心地であった。これを裏付ける狛犬と説明文            あみちゅう      とうじ        なかま            きざ があり、「かち(徒歩)網中」として当時の漁業の仲間が36人の名が刻まれている。        ほんでん うら  かくちょう      じもと  ゆうし   ひ        まつしたこうのすけ    き ふ  また、戦前、本殿の裏を拡張した時に地元の有志が碑を建て、松下幸之助氏も寄付し              しょうめんとりい      どうひょう            ごきゅうせきごぼう た1人として記されている。正面鳥居の右に、道標があり、「左 御旧跡御坊極楽寺              わたし とう きざ なか山 あまか崎 のさと渡」等が刻まれている。       けいだい                じんじょう  なお、当寺境内は明治14年から30年まで、玉川尋常小学校(現玉川小学校)に使 用された。 えんまんじ 円満寺 玉川4丁目 (真宗西本願寺の末寺)     きょうほう                どうう              こもんじょ  当寺は享保2年(1717)10月、西本願寺派の堂宇を建てたという古文書があり、こ れが円満寺のことのようである。                       きじゅつ    かしょ  「円満寺文書」が残され、野田村や野田ふじを記述した箇所が多くある。また、門前       うちじに      ひろう          とうろう に「二十一人討死之御書披露」と記した、形のよい灯籠がある。     うちじに の ひ 二十一人討死之碑 玉川4丁目    かいわい                ひぶん  がいよう   てんぶん  玉川界隈に数ヶ所この碑が建立されている。碑文の概要は「天文2年(1533)本願寺    しょうにょ     ふきょうかつどう        さ さ き さだより  ぐんぜい おそ 10代証如上人は布教活動中に野田の地で、佐々木定頼の軍勢に襲われた。その際、野    いっこうしゅうもんと ひゃくしょうしゅう                 じゅんし 田村の一向宗門徒の百姓衆が、証如上人を守るために戦い、21人が殉死し、証如上人  なん のが                  しそん               ほう は難を逃れたのである。現在でもその時戦った子孫がいて、円満寺・極楽寺では毎年法 よう 要をされている。 かすがじんじゃ        ふじ 春日神社 野田の藤跡 玉川2丁目         ふきん       ぐんせい           よしの  さくら   たかお           なら しょう  古くからこの付近には藤が群生しており、「吉野の桜」「高雄のもみじ」と並び称さ       めいしょ         むろまちばくふ     しょうぐんあしかがよしあきら たいこうひでよし         おとず れ「ふじ」の名所であった。室町幕府の2代将軍足利義詮や太閤秀吉も藤の花見に訪れ                 せんさい          かいめつてき じょうたい ている。しかし、昭和20年6月の戦災で春日神社や藤の木が壊滅的な状態になった。 せんご じもと       ねっしん  さいせいうんどう       こぼく       せいこう 戦後地元の人々の熱心な再生運動により、古木の再生に成功した。                       せいてい  平成7年には福島区の花として「のだふじ」が制定された。 てんじんしゃ 天神社 福島1・2丁目          すがわらのみちざね まつ          つうしょう  かつて福島には、菅原道真を祀る天神社が、通称「上、中、下」の3天神社があった。        だざいふ   させん      おり           よ                 あた         でん 区名は道真が太宰府へ左遷された折、当地へ立ち寄り、「福島」の名を与えたという伝 しょう     こうせいねんきんびょういんみなみどなり         せんさい  や         ふくしまてんまんぐう 承による。厚生年金病院南隣にあった「中の天神」が戦災で焼けたため、福島天満宮             ごうし (もとの「上之天神」)に合祀され、現在は「下の天神」と「上の天神」の2天神社 のみである。 たなべせいこ せいたん  ち 田辺聖子生誕の地跡 福島3丁目     あさ         ゆうめい            せいか      しゃしんかん  NHK朝のドラマで有名になった、田辺聖子さんの生家「田辺写真館」が、昭和20     くうしゅう しょうしつ   しゅうへん        ぎょう 年6月の空襲で焼失した。周辺はメリヤス業の店が多かった。厚生年金病院前のあみだ  すじ                 おもかげ 池筋道路の向い側にあったが、現在はその面影はない。 め り や すかいかん 莫大小会館 福島3丁目  どうじま   きたづめ    いよう  ほこ ちゃかっしょく たてもの いりぐち  堂島大橋北詰に、威容を誇る茶褐色の建物の入口には「莫大小会館」とあるが、これ                  そうひょうぞう せっけい              けんちく は「メリヤス」会館と読む。このビルは宗兵蔵の設計による昭和4年の建築で、今やい     ぎょうしゅ                    しゅよう さんぎょう ろいろな業種が入っているが、メリヤスは当時、福島区の主要な産業の1つであった。  ぜんめん  どうろ   う           しじみ                 せいたん  い ち  前面の道路は、埋め立てられた蜆川(曾根崎川・福島川)の跡で、その西端に位置す る。 さいぜんじ  はやしいおり  はか 西善寺 林伊織の墓 福島3丁目 (真宗興正寺派の末寺)                 るいしょう     かたきうちてんがちゃやむら        か ぶ き  当寺は、明治42年の北の大火で類焼した。「敵討天下茶屋聚」という歌舞伎で有名             けいだい       しじつ            う き た     かろう な重次郎(林伊織)の墓が境内にある。史実ははっきりしないが、「宇喜多家の家老、  げんば   ささい  こうろん あんさつ           とうま さぶろう え もん   とうそう             い じ 林玄蕃が些細な口論で暗殺され、相手の当麻三郎右衛門が逃走した。林玄蕃の遺児2兄   あだう    たびさき         ふきん          ふざい  おり          あいて 弟が仇打ちの旅先中之天神社付近で、兄の伊織が弟の不在の折に、仇打ちの相手と出く    かえ          ころ                    くや わし、返り討ちにあい殺されてしまった。弟は悔しい思いで相手を探し、天下茶屋で父          たねん  うら    は と兄の仇を討ち、多年の恨みを晴らした」と伝えられている。 さかろ   まつ 逆櫓の松碑 福島2丁目             え ど あざぶ  けいせい      きたの  ようごう  福島逆櫓の松は,かつて江戸麻布の傾城松、京北野の影向松と共に,三都三名松と言わ          へさき         げんりゃく        みなもとのよしつね へいけついとう     せつつ れた。逆櫓とは船の舳先のことで、元暦2年(1185)源義経が平家追討のため摂津国         かじわらかげとき       ろんそう 福島に来た時に、梶原景時と逆櫓の論争があったと伝えられている。               しょうしつ            いいき ととの         けんしょう  ひ  明治42年の北の大火で松は焼失したが、その後遺域を整え、この地に顕彰の碑と松   が植えられた。 じょうしょうばし 浄正橋跡碑 福島2丁目               しじみ  この碑が建っている道路に、蜆川(曾根崎川ともいう)が流れていた。蜆川の両側の                      どしゃ  がれき                じゅんじ 家々や橋は、明治42年の北の大火で焼け、土砂・瓦礫の山になったので、順次大正末 までに埋め立てられた。 ふくざわゆきち せいたん 福沢諭吉生誕の碑 福島1丁目  「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ、人ノ下ニ人ヲ造ラズ」の言葉で知られる福沢諭吉は、天         ぶぜん なかつ                はん    くらやしき 保5年(1835)豊前中津藩士福沢百助の末っ子として、中津藩大坂蔵屋敷で生まれた。       さいはん     ちちおや きゅうし       もど           ながさき らんがく  いがく 福沢諭吉は1歳半の時、父親の急死で中津に戻るが、その後長崎で蘭学、医学を学び、        おがたこうあん てくじゅく           けいおうぎじゅ        ぶんぴつかつどう   かつやく 20歳の時、緒方洪庵の適塾に入塾、その後慶応義塾を開き、文筆活動等で活躍し、現        しょうぞう 在は1万円札の肖像としてよく知られている。         しゅうへん 「ほたるまち」の周辺 福島1丁目     あさひほうそう             ばしょ  現在、朝日放送やマンションが建っている場所は、江戸時代にはその一角に福沢諭吉                             きょうや が生まれた「中津藩の蔵屋敷」があった。また、この地で後に京焼き等で知られる元に     どうじまがま     はっくつ なった(堂島窯)跡が発掘されている。大阪中学校(現北野高校)・堂島女学校(現大        きょういくきかん               おおさかだいがくふぞくびょういん た 手前高校)など教育機関もあった。その後、大正13年に大阪大学付属病院が建ったが、      すいた 平成5年に吹田市に移った。 たこ  まつ 蛸の松跡碑 福島2丁目   たみのばし きたづめ                たいがん        く る め はん  田蓑橋北詰めの「蛸の松」碑は、江戸時代には対岸にあった久留米藩の蔵屋敷の前                  けいはんでんしゃ               けんしょう (のちの旧阪大医学部前)にあった。京阪電車中の島線の工事にあたり、現在地に顕彰 のために植えられた。 うめだ ばし 梅田橋跡 福島1丁目    げんろく  ちかまつもんざえもん  だいひょうさく そ ねざき しんじゅう     しょうゆや            てだい  時は元禄、近松門左衛門の代表作「曾根崎心中」は内本町の醤油屋「平野屋」の手代、 とく べ え  どうじましんち    てんま や    ゆうじょ    はつ しんじゅうものがたり                ぬ 徳兵衛と堂島新地の「天満屋」の遊女、お初の心中物語である。――天満屋を抜け出し         しんや たお初と徳兵衛は深夜、蜆川にかかる梅田橋を渡って天神の森――で有名な橋だが、今   おもかげ しの では面影を偲ぶのもむつかしい。 ごだいともあつせいらんしょ  にしちょうようかん 五代友厚製藍所・西朝陽館跡 北区堂島3丁目    しょうこうかいぎしょ      おや            きんだいさんぎょう きょてん けんしょう   せきひ  大阪商工会議所の生みの親である、五代友厚が作った近代産業の拠点を顕彰する石碑  のこ が残されている。 じょうゆうじ  やとう ふ し       きくの 浄祐寺 矢頭父子の墓・菊野の墓 北区堂島3丁目  あこう                  え も しち         い し   つ    しゅくん あだ  う    せんがくじ  ほうむ  赤穂47士の一人、矢頭右衛門七は、父の意志を継いで主君の仇を討ち、泉岳寺に葬         くなん              なら られたが、後に苦難を共にした父子の墓を浄祐寺に並べて建てた。        こいのふうじめ  近くに「五大力恋緘」の芝居で有名な遊女「菊野」の墓もある。 ちくぜんばし 筑前橋 北区中之島3・4丁目〜西区土佐堀1丁目          しょき                  すじじょうりゅう か                どの  筑前橋は江戸時代初期頃からあり、今より一筋上流に架けられていた。筑前殿橋とも             ちくぜんくろだはん  くらやしき    べん 呼ばれて、中之島にあった筑前黒田藩の蔵屋敷への便のために架けられたといわれ、当   いっぱん     つうこう 時は一般の人は通行ができなかった。  めいじ              たみのばし          明治になって蔵屋敷がなくなり、田蓑橋と同じ通りに架け替えられた。


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