安政の大地震・津波 1854年(安政元)
安政年間には大地震が多発した。そのうち元年(改元前嘉永7年)
11月4日近畿を襲った地震で、大坂では大津波が安治川や木津川
の河口から遡上し、河口付近に碇泊していた数百隻の千石船などの
大船が押上げられ橋を破壊し、周辺の家屋や土蔵にも破損や倒壊の
被害を及ぼした。地震での被害より津波の被害の方が多かったとさ
れる。翌年、犠牲となった人々の慰霊と後世への誡めを語り継ぐた
めに石碑が建てられ、今日まで受け継がれてきた。
明治18年の大洪水 1885年(明治18)
6月から7月にかけて、連日のように雨が降り続き、暴風も伴な
い、堤防が決壊、淀川流域は大惨事となった。最高6.2メートルの
水位で、家屋流失も大阪市内で2000近く、天満橋・淀屋橋など中之
島周辺の橋はほとんど破壊・流失し、流された橋材がとどまったた
め、安治川橋は軍隊により破壊された。大阪市内はほぼ全域水没し、
大阪府では72,000戸が浸水した。これを機に淀川改修の気運が高
まった。
災害の記憶
小学校の頃、田舎(鶴見区)のおばあーちゃんから聞いた話が耳
に残っている。「大阪市の半分ぐらいが水に浸かって、大変だった」
これは明治18年の風水害で枚方の堤防が決壊したためで、その後、
大阪市内を蛇行して流れていた中津川(淀川)が真っ直ぐに開削さ
れた。
以後、淀川が氾濫することが無くなったが、昭和9年の室戸台風、
昭和25年のジェーン台風では中津運河の堤防から水が溢れて海老
江の町が水に浸かった。
室戸台風の時は家が米屋をしていたので、床下まで浸水して、被
害があった。そして、先の大戦で1トン爆弾が家の前に落ち、全て
が吹っ飛んでしまった。戦後すぐに家を建て替えた時に室戸台風で
痛い目にあったので、父親は地盤を高くして自宅を建てたと言って
いたのを思い出す。
海老江在住 70歳 |
北の大火 1909年(明治42)
7月31日の早朝、北区空心町から出火、強い風にあおられて、西
へ燃え広がり、堂島米穀取引所、堂島女学校(旧中津藩跡、現大手
前高校)、上の天神、第一上福島小学校(現上福島小)など11,300
戸余を焼いて、下福島の日本紡績の高塀(現下福島公園)で焼け止
まり、24時間で鎮火した。残された瓦礫で曾根崎川(関電病院の北
側道路)は埋め立てられた。これ以降、消防施設の充実も図られた。
室戸台風 1934年(昭和9)9月21日
室戸岬測候所では911.9ミリバールを観測し、大阪測候所の風力計
は、60メートルを示したまま吹き飛ばされた。猛烈な風と高潮で大
阪も大きな被害を受けた。大阪府の死者・行方不明者は1800以上。
学童の登校時にあたったため、学校関係の被害も大きかった。これ
以降、鉄筋校舎が奨励され、警報のあり方見直された。鷺洲第一小
学校(現鷺洲小)は校舎倒壊等の被害を受ける。
大阪大空襲 1945年(昭和20)
福島区では6度の空襲を受けた。3月13日堂島川付近、6月1
日上福島・西野田地区、6月7日上福島地区、6月15日海老江地
区、6月26日海老江・鷺洲・西野田地区、7月10日鷺洲・上福
島・下福島地区が被災した。下福島国民学校(現下福島中)、西野
田国民学校(廃校)、上福島国民学校などが焼失したが、学童疎開
などで児童は不在だった。
災害の記憶
3月14日、この日大阪大空襲。
真っ赤な空、真っ暗な防空壕の中で、九条の我家は家財、家屋共
全焼。無一文になり、即田舎に帰郷。終戦後、やっと亀甲町に戻っ
た。
小さい時は上述の空襲場面を鮮明に記憶していたが、いつ頃から
か次第に薄れてしまったことを覚えているという情けない有様だ。
今は当時製作の映画を見て、真っ赤な空、真っ暗な防空壕の記憶
の補強を心掛けている。
亀甲町(現在玉川)在住 当時6歳
私の家は江成町にあった。路地の先の公園に国旗掲揚台があり、
その下に防空壕があり、空襲警報が鳴るとそこへ避難したものだ。
そしてその中から外を見上げて、父が、あれがB29(米国爆撃機)
と指をさし教えてもらった。しかも空の高い所を飛んでいて、豆つ
ぶみたいなものだった。そのうち高射砲の音が聞こえるが、飛行機
に当ることがない。区役所あたりから火の手があがる。爆弾を落と
されたと父が言った。そして空襲が激しくなり、大阪も危ないと、
私は母と鳥取県に疎開した。
当時吉野在住 3歳 |
ジェーン台風 1950年(昭和25)9月3日
室戸台風と似たコースを取り、近畿地方に大きな被害をもたらし
た。満潮時にさしかかり、天保山では潮位(ちょうい)3.85メートル
を記録し、大阪市の21パーセントが浸水した。死者・行方不明200人
余、全壊5000戸など。この後、防潮堤の構築などが急速に進むよう
になった。この日は日曜であったため、学童の被災はまぬかれた。
福島区でも大半が浸水した。
災害の記憶
古屋の我家では風を心配していた。その日は日曜で、翌日が私の
誕生日なので早めに赤飯で祝った。午後に風が強くなり、台風の目
が過ぎ、東南に風が変わると、ビル屋上のお稲荷さんが吹き上げら
れ、落ちるのを見て怖さを知った。
風が収まったと思ったら、下水から水が上がってきた。水は瞬く
まに床上まで達した。翌日、先生が、海水パンツ姿で舟に乗って
回ってこられ、家から出るな、水に入るなと注意された。汲取式の
トイレはあふれ、水の上には便が漂っていた。
所在なく2階に居た私は、お向かいの屋根にネズミを見た。それ
を猫が追いかけた。ネズミは屋根の隙間に逃げ込んだ。手が出せな
い猫は、その前で動かない。どうなるかと見ていると、夕方になっ
て、たまりかねたのか、ネズミが顔を出した。その瞬間、猫はネズ
ミを喰わえて立去ってしまった。
鷺洲在住 当時小学3年生
小学生であった私は、次兄と二人ですぐに吉野小学校へ避難した。
母と長兄は畳などを濡れないように上げ、遅れて裏の福島署に避難
した。避難の途中、水勢に押し流されそうになったと、水が引いた
あとで聞いた。私と次兄は、筏のようにものに乗せられ、自宅に帰っ
た。
1カ月ほど学校が休みになっり、近所の友達とよく遊んだ思い出
がある。その後、台風といえば、高潮の恐怖が家族全員に湧き上が
り、警戒するようになった。
当時吉野在住 小学3年生
当時は毎年二百十日、二百二十日頃に台風が予測され、ラジオの
ニュース放送に一喜一憂したことが思い出される。各家も木造作り
が大半で、台風が近づくと、前日より玄関や二階のガラス戸に板を
打ち付け、雨除け、風除けに防備し、無事通過を願ったものだ。
台風当日、北港通り西より泥水が押し寄せ、あっという間に家の
一階に浸水。壁の至る所に水位の跡が残り、その下部はすっかり空
間となり、その爪あとは空しいものであったと記憶が残る。
汚水汚物が溢れる中を物資を求めて往来する姿は、悲惨なものだっ
た。
水が引いたあとは、伝染病予防上薬剤の散布。強い臭いが鼻につ
く辛い想い出の一つである。
吉野在住 当時中学2年生
二階の窓から、家根瓦が木の葉のように舞い飛んでいる光景を眺
めながら、風の脅威を恐ろしく感じたことを覚えている。
風がおさまり大通に出てみたら、マンホールの蓋の穴から水がぶ
くぶく噴き出し、みるみるうちに道路に溢れ出て。我が家も床下浸
水して、しばらく二階での生活を余儀なくされたことを鮮明に思い
出した。
当時吉野在住 小学3年生
小学校に入ったばかりの頃、海老江西小学校に避難したのを覚え
ている。新淀川と並行して流れていた運河の水が溢れ出して、自分
の家はギリギリ床下までの浸水だったが、3軒ほどの両隣は床上ま
で水につかっていた。勿論、家の瓦屋根は吹き飛ばされたし、もの
すごい風に、いつ家が飛ばされるかと心配で、子供心にとても怖かっ
た(71歳の人生で一番恐ろしかった記憶)。
今思うと海老江西小学校も水につかつたと思われるが、確か講堂
は現在より奥の方にあったと思う。
親子三代海老江7丁目在住 当時小学生
あの日は朝から急に風雨が強くなり、風の音がヒューヒューと大
きく鳴り出し、そのうち家全体が風が吹く度に大きく揺れ出し、ガ
タガタといろいろな音がした。
学校が休みなので家の2階から外を見ていると、瓦やトタン板が
目の前を飛んでいくのが見えた。
その時、遠くの方で「水や!水や!」の声がするので、下に降り
て玄関の戸を少しあけてみると、公園の方から水がこちらの方に流
れてくるのが見えた。あわてて戸を閉めたが、どんどん水が入って
来て、あっという間に畳の上まで水に浸かってしまった。
小さかった私の胸のあたりまで水に浸かり、本当に怖かったのを、
今でも鮮明に覚えている。
吉野在住 当時小学3年生
風がおさまった瞬間、水が家に入り込み、急いで吉野小学校へ避
難した。水は腰くらいあった。母は下の弟を背負って、私と手をつ
なぎ、必死だった。弟がマンホールに長靴を吸い取られ、弟も流さ
れるところだったが、私としっかり手をつないでいたので助かった。
その年は丁度父が他界した都市で、本当に恐ろし思いをしたのを
覚えている。きょうから夏休みが終わり二学期が始まる日ではなかっ
たかと思いだす。本当にジェーン台風は一生忘れない。
当時吉野在住 小学3年生
従兄が東住吉区湯里町(当時は市内でも田舎の雰囲気があった)
に住んでいて、たまたま不幸があって、母親と一緒にその家に行っ
ていた。一日目は雨・風は強くなかったが、二日目の日、その家か
ら窓の外を見ていると、田圃の中に一家があり、最初は何もなかっ
たが、西風が強くなりだして家の窓が壊れ、吹きぬけになり、家が
持ち上げられて、大きな家でも一瞬の内に吹っ飛んでしまう恐ろし
いものだと思った。
そして台風が去って帰ることになるが、近鉄電車・東成線は運転
していたが、西成線は不通で、阪神電車はかろうじて野田まで運転
していて帰ることができた。駅を降りて、自宅の所は床下浸水で、
父が縁台を置いていた。
その後第2室戸、いろいろの災害にあったが、無事に生活できた
のも町づくりのたまものと思う。
当時吉野在住 小学3年生
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第2室戸台風 1961年(昭和36)9月16日
近畿地方を横断して日本海に抜けた台風18号は、大阪での気圧
937.3ミリバール、瞬間最大風速50.6メートルを記録した。高潮に
より西大阪臨海地帯をはじめ、各河川流域に大きな被害をもたらし
た。室戸台風とコースが似ていたため、第2室戸台風と名付けられ
た。大阪市内は10万戸以上が浸水し、福島区域も大半が水没した。
災害の記憶
私が9歳の時に来襲した。安治川の堤防が中央市場の所で決壊し、
朝から自宅の前に水が押し寄せ、裏からも庭に水がはいってきて床
下浸水した。朝刊が配布されないので、長靴をはいて水の中をジャ
ブジャブと新聞販売所まで取りに行った。
野田在住 当時小学4年生
室戸岬を通り、紀伊水道を北上する台風は、室戸、ジェーン台風
とほぼ同じコースだったので、我家では覚悟をしていた。そして、
年老いた祖母を避難所へ連れて行った。避難所での居場所が定まる
と、祖母はすぐに家に帰って、高潮対策をとれと云う。避難所から
表通りへ出ると、通りのマンホールからは水が吹き上げていた。す
でに、高潮は始まっていたのある。
我家では、この時も床上まで水がきた。日が暮れた頃、発掘現場
の先輩達から電話がかかった。京阪が運転休止で京都へ帰れないと
いう。そこで、泊めてもらいに行くという。しかしながら、最寄り
駅から我家へは、腰近くまでの水の中を歩くしかない。我家は2階
暮らしになっているので無理だとお断りした。先輩たちは、止むな
く、法円坂の難波宮の現場に泊まった。
その時は3日間の浸水であったが、以後は下水道の完備で床上浸
水は無くなった。
鷺洲在住 当時20代
私が西区の損害保険会社に入社して5年目の日直の日であった。
屋上にお稲荷さんの社があった。雨風が激しかったので潰れてはい
けないと、エレベータで上がってお稲荷さんの無事を確認して下を
見ると、前の川と四ツ橋筋の境がなかった。ビックリしてあわてて
階段を飛び降りるように一階に下りた。すでに水が地下にはいり、
テナント会社と山岳部の部室があった所にいきよいよく流れこんで
いた。必死で地下の様子を見に入ったが、水の勢いが強く直ぐ首ま
できた、危険を感じて九死に一生を得たようにビルの外に出た。近
所の人がビルの中に逃げ込んできて、その人達を会社の会議室に避
難して貰って、あとで総務部長にすごく叱られた、でもこれからも
災害があれば皆が考え助け合いたいと思う。これから起こりうる災
害について、皆と考えておきたい。
吉野在住 当時20代
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阪神大震災 1995(平成7)1月17日
早朝の地震発生で、神戸を中心に死者5000人を越える大惨事となっ
た。大阪市でも死者14名(福島区1)、建物全壊194棟(福島区2)、
半壊2131棟(福島区119)など多くの被害を受けた。震源に近い北
西部の臨海地域や河川沿いで被害が大きかった