2011.1.29

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福島区歴史研究会会員論文


海老江の歴史と概要

地元産業の移り変わり

末廣 訂

『海東だより 17号』海老江東社会福祉協議会 2011.1 所収


      ひかくてき             で き             海老江には比較的早くからいろいろな工場が出来、明治から大正にかけて他 そ    いじゅう 所から移住した人で大変にぎわっていた。       よういん           かいさく  その大きな要因は何と言っても新淀川の開削に伴ってできた「中津運河」と             やくわり 「阪神電車・北大阪線」の役割である。                            ほうだい  は  いまや、淀川に沿ってできた運河には水もなく、草が伸び放題に生えている すがた      おもかげ 姿は当時の面影さえ見えて来ない。また、野田阪神から天六まで走っていた路           はいせん 面電車は昭和50年に廃線となり、その役目を終えた。               えんぽう  けんち  元々海老江は純農村として、延宝の検地では1363石の比較的大きな村で、 大坂町奉行所に毎年提出される「村明細書」によると、江戸時代から明治の初                           なたね 期まで人口が約1100人、240軒と変わらず、米、菜種、野菜等を作り、     ぴき              すいごう 牛約50疋が農家に飼われ、水郷の村としてのどかな村であったと考えられる。  しかし、明治29年から始まった淀川の治水工事により、こののどかな農村 ふうけい  じょじょ         くっさく           どしゃ 風景が徐々に変わり、新淀川の掘削によって出た土砂を運ぶためにできた「中 津運河」がその後の海老江の産業を支える大きな柱になった。       りくそう            せいび  当時はまだ陸送のトラックや道路が十分に整備されてなく、川や運河がもの      しゆだん を運ぶ主な手段であり、この中津運河沿いに、明治の中頃から日本ペイント、   がらす             わ た り せいやく 島田硝子、塩野製作所(塩野義)、和多利製薬の工場が建ち始めた。また、川                             こうかんどう から少し離れた場所に、宇治川電気の変電所、大日本製薬P 、孔官堂が建ち、 そこに働く勤労者用の長屋が建ち、土建業、大工さん、左官屋、材木屋、運送 業等々が集まり、人口がどんどん増えてきた。  大正に入って、3年に野田阪神から淀川沿いに天六まで、阪神電鉄の北大阪 線という路面電車が走り、多くの通勤者を乗せ、朝夕は満員の状態であった。                かくいち 海老江から浦江、大仁にかけて、角一ゴム、丸松メリヤス、日本メリヤス、内                せいはん               そうぎょう 外インキ、日本ノート、美津濃、精版印刷(凸版の前身)が大正時代に操業開 始され、海老江の人口は大正元年の5514人から大正12年には14202                      い じ 人まで増えた。小学校ができ、市場ができ、井路川が埋められ、そして道路が 整備されてきた。                              ゆうぜん  戦前には、メリヤス、化学薬品、硝子、インク、印刷、ゴム、友禅染、鉄工         そろ 所等主な産業が出揃い、人口が増え大変にぎわった町になっていたが、先の大       あ        そかい 戦で戦災に遭ったり、疎開で他所に引越したりで、会社も海老江の町並みも随 分変わってしまった。  阪神電車の本社が海老江に移り、イオンやヤマダ電機など流通業が進出し、 地下鉄やJR東西線が走り、工場の跡地に高層のマンションが建ち、ますます                  まつ さび                   いぶき  め ば この町の姿も産業も変わってきた。一抹の寂しさがあるが、新しい息吹が芽生 えており、楽しみである。                   (福島区歴史研究会事務局長)


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