2010.10.7
水郷の村 −淀川の治水と疫病との戦い−
末廣 訂
たいせき 古代この近辺は海老洲とも呼ばれ、海中に在った土砂や上流からの砂が堆積 い じ してできた土地で、大正の頃までは村中に井路川や沼があり、村の交通手段は こ すいごう もっばら手漕ぎの舟で、のどかな水郷の村であった。 まつせせいせい 明治から大正の俳人で海老江に15年間住んでいた「松瀬青々」は、 「菜の花の はじめや北に 雪の山」(八坂神社境内の碑) 「草の春 田は年々に 家となる」 うた と詠っており、当時の風景が浮かんでくる。 しかし一方では、水との戦い(治水)の歴史がある。一つは、風水害であり、 えき 一つは洪水後の疫病(衛生面)との戦いがあった。 風水害の被害は明治以後も、明治18(1885)年、22年、29年、大正6 (1917)年、10年、昭和9(1934)年の室戸台風、25(1950)年のジェー ン台風、36年の第二室戸台風があった。 特に明治18年の大阪の半分以上が水没する大水害がきっかけとなり、当時、 へび け ま 蛇のように曲がりくねっていた旧中津川(野里川)を、毛馬のあたりからほぼ 真っ直ぐに大阪湾に流れる大治水工事が、明治29(1896)年から始まった。 そして12年後の明治41(1908)年に完成したのが、今海老江の横を流れ ている人工の淀川である。この工事で、海老江村の土地の65%(90町歩)が 川底になり、村は分断され、海老江新家は対岸の花川町になった。村の墓地も 移され(現在は服部緑地公園内にある)、野田、福島の戦いで織田信長の陣営 とりで になった海老江城(砦)も川底になった。この治水工事完成を記念して、八坂 そ が きおん ひ 神社裏の海老江中公園内に「疏河紀恩之碑」が建っているが、余り知られてい ない。 か またこの淀川に架けられた橋が「西成大橋」で、その後、大正15(1926) 年に現在の淀川大橋ができ、国道2号線を昭和50(1975)年まで阪神電車国 道線のチンチン電車が走っていた。 もう一つの疫病や衛生面の戦いでは、上下水道が完備していない当時、風水 は や 害が起こるたびに、コレラ、腸チフス等の疫病が流行り、多くの死者が出た。 こちょう 明治12(1879)年に流行したコレラで、当時の海老江村戸長であった羽間 かか 市右衛門氏が、村中で起きた疫病対策中に、本人が流行病に罹り亡くなった。 その時の碑が八坂神社境内に建っており、当時のご苦労がよくわかります。 そして当時の鷺洲町(海老江、浦江、大仁)に衛生組合が大正初期に結成さ れた。各地区から衛生委員や評議員が選出され、組合組織で村の清掃、街路の 整備、上下水道の整備、伝染病対策等の活動内容が、昭和8(1933)年発行の 「鷺洲衛生組合二十年史」に記載されている。 その後、海老江には大きな工場が次々と建ち、人口が増え、井路川が埋めら ひやく れ、道路と共に上下水道が完備されて、衛生面が飛躍的に改善された歴史があ る。 (福島区歴史研究会事務局長)