2010.10.8

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福島区歴史研究会会員論文


海老江の歴史

浦江塾 第4回 資料

末廣 訂


1 海老江の歴史と概況  (1)福島区内の古い村の一つ 野田村、福島村、浦江村(鷺洲)、海老江村                             たいせき  (2)海老江は海老州ともいわれ、海中に在った土砂が永年堆積して出来た島    の一つ  (3)戦国時代に織田信長が活躍した前後から「海老江」「ゑび江」として歴                       しんちょう    史の書物に出てくる。(細川両家記)、(信長公記)  (4)海老江村には旧中津川(野里川)沿いにあった海老江新家(現西淀川区    花川町)と二つの集落があり、比較的大きく、豊かな農村であった。     江戸時代(幕末)の石高                             とうがん      海老江村 1363石――米以外に大豆、菜種、木綿、冬瓜、ナス等      浦江村  1028石      野田村  1257石      福島村   926石  (5)海老江の人口の堆移      嘉永7年(1854) 1141人      明治3年(1870) 1088人      大正12年(1923) 14202人      昭和50年(1975) 11815人        平成12年(2000) 9535人  (6)村の中心地は神社とお寺であり、約200軒の農家がその周辺に建ち、    街道(梅田街道、大和田街道)が村中を通っていた。  (7)地名は 西成郡海老江村であったが、明治22(1889)年に鷺洲村字海    老江となる。大正14(1925)年に大阪市西淀川区海老江、昭和18(1943)    年に福島区海老江と変遷。  (8)明治18(1885)年に大洪水があり、大阪のほとんどが洪水の被害を受    けた。新淀川の改修工事で海老江村の半分が川底になり、海老江新家は対    岸の村になって分断された。明治41(1908)年、新淀川に西成大橋が完    成した。                                の ら  (9)大正の末期まで海老江は農村で、水路(川)を舟に乗って野良仕事に行    く姿が見られた。その後、塩野義初め大日本製薬や東洋ガラス、印刷、イ        とそう    ンキ、塗装の会社等が出来て、工業化が進んできた。  (10)太平洋戦争では戦災にあったところもあり、また道路の拡張や区画整理                               おもかげ    で大きく変わってしまったが、淀川が壁になって、まだ昔の面影を残して    いる。 2 海老江の文化、史跡、お祭り  (1)八坂神社の宮座神事                    ご ず     神社は明治4(1871)年までは牛頭天王社と呼ばれて、もともと神主が    居らず、村の役人(庄屋、百姓代)が交代で神主を代行し、明治の中ごろ                                 とうや    まで神事を行ってきた。宮座神事はオキョウ(御饗)神事とも、頭屋行事    ともいわれ、12月15日の夜に頭屋の家に座衆が集まり、古式による料                          なおらい    理を行い、真夜中に神社へお供えをして、翌日に直会で座衆がお供えをい    ただき、次年度の頭屋を選ぶ行事。昭和47(1972)年に大阪府の無形文    化財に指定された。     昔から海老江は神社の行事が生活の中に生きている。正月から大晦日ま    でいろいろな行事がある。その最大の行事は7月17.18日の夏祭りで    ある。枕太鼓と地車3台が、18日の本宮に朝から町中を巡行し、夕方か    ら各町が順番に宮入する姿は圧巻である。     また神社では、昔から俳句や詩吟、書道華道教室があり、文化、教養を    支える場としての役割も大きい。           まつせせいせい     神社境内には松瀬青々の句碑や街道、西成大橋の石碑や裏の海老江中公    園には淀川改修の碑が建っている。  (2)南桂寺と郭公塚               かっこう     真宗大谷派で鷺洲山。郭公塚は、明治の初めに傷ついた鳥が寺に迷い込    み、手厚い看護で回復し、元気に一声鳴いたのでホトトギスとわかった。                           とむら    ところが後年乱暴な人に殺されたので、塚を建てて弔ったというお話。     境内に郭公塚、道標の碑、橋柱などがある。  (3)松瀬青々の旧宅跡     子規の弟子で明治から大正にかけて15年間海老江に住んでいた。    現在海老江4丁目に説明板と石碑が建っている。当時の海老江の風景が頭    に浮かぶ句が多い。      菜の花の はじめや北に 雪の山      淀川の 銭取橋や 寒習ひ      枕元 えびえの寺の 鐘氷る      草の春 田は年々に 家となる  (4)羽間市右衛門邸     代々海老江の庄屋や村の役をされ、延宝元(1673)年の検地帳をはじめ    村の文書が残っており、海老江の歴史そのものである。     大正13(1924)年に書かれた1800頁の『鷺洲町史』は羽間家文書が中                      はざま    心。江戸末期に幕府から海老江で唯一「羽間」姓を許されている。  (5)羽間文庫     羽間(市右衛門)家とは全く関係がない家で、天文学で有名な阿波座の     はざま    「間」とも関連するものが少ない。              こっとう     先代の方が古文書や骨董品の収集家で、「羽間文庫」を開設。したがっ    て海老江に関する史料や古いものはない。          (6)たかの巳社     江戸時代の初期、海老江は鷹狩りの拠点であり、尼崎の殿様「青山大膳」    がしばしば家来を連れて鷹狩をしたところ。当時は高台で大きな木が茂っ                     ど い            どうい    ていたといわれている。現在の尼崎道意町(新田)は、海老江の道意翁が            *注          ど い    殿様から依頼を受け開墾したと言われ、道意神社が建っている。(「道意    神社由緒」より)      *注 尼崎の道意新田は、海老江の中野道意(姓は西村)と子、中兵      衛、次郎兵衛他数名で開発した。(「道意神社由緒」、『尼崎市90      周年記念誌』、羽間市右衛門文書等記す)  (7)幻の海老江城                       とりで     「信長公記」書かれている海老江の城(砦)はどこにあったのか。『鷺    洲町史』に記載されている地図に、淀川大橋の真ん中付近に城のマークが    あるが――。                       (福島区歴史研究会事務局長)


参考
末廣 訂「海老江の「宮座(キョウ)神事」


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